弁護士トラブルシューター

大震災で株を上げた、次々代総理候補 内閣官房長官 枝野幸男 プレジデント 2011年4.18号
http://president.jp.reuters.com/article/2011/03/28/03196BD4-56A7-11E0-A834-F1E03E99CD51.php
>……会見で、質問をしてくる記者の顔を見ながら丁寧に答えた。事前に用意されたペーパーを読んでいるのではなく、自分の言葉で話す立ち振る舞いには妙に説得力があり、誠実そうな人柄が表れていた。画面を通じて好感をもった視聴者も多かったのではないか。
>24歳で司法試験に合格し、29歳のときに政治の世界に転身。注目されたのは1995年からの薬害エイズ問題の追及と和解の実現である。2009年の事業仕分けで、統括役として脚光を浴びたことは記憶に新しい。政治家としてのアキレス腱は根が真面目で駆け引きがあまり得意でないことだ。「華があまりない」「フットワークを軽く」といった声も党内から聞こえてくる。
>一方で待望論も出る。……どう采配を振り地震災害を乗り切るかが、枝野氏の試金石になるともいわれる。

2011/3/15 17:14 ツイッターユーザーが枝野官房長官に「枝野寝ろ」
http://jp.wsj.com/japanrealtime/2011/03/15/%E3%83%84%E3%82%A4%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%A6%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%81%8C%E6%9E%9D%E9%87%8E%E5%AE%98%E6%88%BF%E9%95%B7%E5%AE%98%E3%81%AB%E3%80%8C%E6%9E%9D%E9%87%8E%E5%AF%9D%E3%82%8D/
>枝野長官は11日の震災発生直後から、会見場に根が生えたかのように事態の進展を刻々と伝えてくれている。報道特番が続くテレビでも会見が頻繁に中継されている。昼も夜も、時には1時間に何回も会見を行い、この危機のなかで、政府の顔として存在感を高めた。明るいブルーのつなぎの防災服を着たずんぐりとした姿で、演台の両端をつかみマイクにかがみ込んで話す長官の姿は国民の脳裏に焼き付き、その安定感が賞賛を呼んでいる。
>日曜夜から月曜朝にかけて頻繁に行われた枝野長官の会見をユーストリームのライブ映像で見ていたあるツイッターユーザーは、官房長官に質問を浴びせる国内メディアの記者へ「ばかばかしい質問をして彼のエネルギーを消耗させるな」と苛立ちをあらわにした。
http://online.wsj.com/media/edano_DV_20110314051756.jpg
>Associated Press 枝野官房長官は105時間寝ていなかったらしい

 法曹だから私のエコ贔屓です(^^ゞポリポリ*1。枝野官房長官の健康を案じているツイッターユーザも多いと思います。その崇高な公益使命と節度を保ったプロ意識の記者会見に敬意を表します。ただ,ときどきはご自身の家族のことも考えて,水分と睡眠を充分とられてください。誰も責める人はいないと思います,ウエル・ダン!*2
 危機の時,出身専門分野を問わず,危機管理能力で傑出する人は多いです。

サー・ウィンストン・レナード・スペンサー=チャーチル(Sir Winston Leonard Spencer-Churchill)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%AB
チャーチルはラジオや議会での演説を通じて国民に戦争協力を呼びかけ、総力戦を組織化していき、ドイツ空軍による「バトル・オブ・ブリテン」を勝利に導いた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Churchill_V_sign_HU_55521.jpg
>……彼はマールバラ公家特有の躁うつ病を患い、生涯に心臓発作を含むさまざまな病と闘った(彼は自身の躁うつ病のことを『私の中の黒い犬』と呼んでいた)。……日常ではジョークの名手かつ毒舌家であり、ある女性議員から「私があなたの妻だったらあなたの飲む紅茶に毒を入れるでしょう」と皮肉られたところ、「私があなたの夫だったら喜んでその紅茶を飲むでしょう」と平然と言い返したという話は有名で、女性議員を悔しがらせたと伝えられる。
>語録
>「悲観主義者はすべての好機の中に困難をみつけるが、楽観主義者はすべての困難の中に好機を見いだす」
>「成功とは、意欲を失わずに失敗に次ぐ失敗を繰り返すことである」
>「成功は決定的ではなく、失敗は致命的ではない。大切なのは勇気を持ち続けることだ」

カール・グスタフ・エミール・マンネルヘイム
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%83%A0
>……フィンランド内戦で軍を任され、白衛軍の司令官となり、独立早期、フィンランド君主制を目指した際には執政として連合国に独立承認を求めた。その後、一時は隠遁生活を送るが、第二次大戦突入前の情勢不安の中で先の実績を買われて国防委員長となり、軍の装備の更新などに力を入れた。その後のソ連との戦争である冬戦争、継続戦争においては最高司令官となり、的確な指示でフィンランドの防衛を行った。また、政治家としての活動も行い、継続戦争で戦況悪化とナチスとの同盟の責任から大統領を辞したリスト・リュティを継いで、1944年から1946年にかけて第6代大統領となり、難しいソ連との講和を成し遂げ、独立を保った。
>……この攻撃によって冬戦争が開始された。マンネルヘイムは娘のソフィーへの手紙に、彼の気持ちが書かれている。「歳と健康を考えれば私は最高司令官の重責など引き受けたくなかった。しかし私は政府と大統領の懇願に膝を折らねばならなかった。私は今4度目の戦争の中だ。」
>……軍司令官としてのマンネルヘイムは一般的に成功した。彼の指導の下、フィンランド防衛軍はフィンランドソ連の占領から守った。マンネルヘイムは兵士の生命を浪費しないように注意しており、不要な危険を避けた。おそらく彼の最大の短所は彼の不本意での代表であることだ。
>>議長、温かいお言葉感謝申し上げます。誉れ高い議員の皆さんに国難の時に国家の長たる職務の二度目の許しをいただいたことに、私にのしかかる責任を重く感じています。大きな課題は我々の未来を守るために打ち勝たなければならない困難です。今、真っ先に私の心にあるのはもう5年の間戦っているフィンランド軍のことです。議会、政府の支援と我々を支える人々の満場一致によって、我々は独立と国家の存続の維持に成功すると私は望み、そう信じております。

加藤一郎 (法学者)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%B8%80%E9%83%8E_(%E6%B3%95%E5%AD%A6%E8%80%85)
>1968年、東京大学法学部長、同年東大紛争により東京大学総長代行、1969年から1973年まで同総長。
佐々淳行著「東大落城 安田講堂攻防七十二時間」文春文庫,77頁以下
>……警察当局とほとんど連日連夜協議し,文部省とも交渉。……学生グループとも疲れを知らず断交を続けていた。……加藤代行はイデオロギー抜きのプラグマティストで,日本のインテリには珍しい冷徹な合理主義者のタフ・ネゴシエイターだった。
>……断交とは事実上吊るし上げ大会なのである。……加藤代行は平然とこれに応じ……悠々と講堂に入っていった。……「帰れ,帰れ」というシュプレヒコールに送られた加藤代行がゆっくりと安田講堂から歩み出てきた。
>……「加藤代行,行方不明」という情報が入った。……なんと加藤代行は出身校である……定例合唱団に参加して,バリトンかなんかで歌を唱っていたのである。……ストレス解消法なのだそうである。……「加藤代行って凄い強靭な神経の持ち主ですね」

*1:前任の弁護士官房長官は除きます

*2:「公務員は,客観的真実や個人的に知っていることはもちろん,個人的見解でも絶対に発言できないことが多く,それだけで記者会見がストレスになって心身を蝕む」(パパリン日記)はずです