自由と平等の根拠

 日本国憲法の根本規範は,全ての人が個人として尊重されて尊厳を有する存在であることが不可欠だから「個人の尊厳」である。個人の尊厳の根幹は「自己決定権」であるから,個々の(不可侵)自由権が導かれ,自己決定権の不可侵から個々の自由権のMAXの総和は,自由権が等価であることが要請されるので「平等保護(平等権)」が導かれる。
出典:亡父メモランダム

 これは,亡父の憲法基本書の佐藤幸治著「憲法」に挟まっていたB6カードからの引用である。これも厳密に分析すれがトートロジーだろうが,至高の概念から全ての概念を説明する技法でもある。自然法則である図形の公理から定理を導きだすのは,公理が事実(例:三角形の内角の和は180度)か定義(例:平行線)だからいいのだが,当為法則の至高の概念は,常にアウフヘーベンが存在するので,いつまで行っても切りがないので(例:ノモス主権論*1 ),目的論的に一定限度で切る(司法試験に求められる程度で糸冬とする)しかないのかもしれない。
 信仰の道に入るとき,「全能なる造物主(創造主)」の理論的根拠と存在証明で悩む方も多いかと思う。牧師さんや神父さんに「造物主を試してはいけない」と怒られるが,「造物主は自分が持ち上げられない石を作ることは不可能だ」*2。造物主の存在は,聖書や目撃者(例:ジャンヌ・ダルクほか)で証明可能とされるが,その記載や目撃状況の供述の信用性(信憑性)という訴訟法的判断まで進んだら,それはやはり(以下略)。
 コルシカ出身のプライマリ同級生*3から数年前に教わったイタリアン・ジョークで〆たいと思います。

共産党大会の後夜祭で意気投合して飲み明かした神父と党幹部の会話
共産党員「汝はカソリックか?信仰はあるか?」
教会役員「信仰してますが実践してません,汝は共産主義者か?」
共産党員「実践してますが信仰してません。」

 ときに論理的整合性と結果の妥当性が対立する見本です。暴言多謝m(._.*)m。

*1:参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BE%E9%AB%98%E3%83%BB%E5%AE%AE%E6%B2%A2%E8%AB%96%E4%BA%89

*2:必ず出てくる理屈で,造物主が作れたらそれは自分が持ち上げられない石が存在することとなり全能性の否定であり,作った石が持ち上げられたらそれは持ち上げられない石を作れないこととなりやはり全能性の否定である。要するに全能は論理学では不存在とするしかないのである

*3:言わずと知れたオメルタで統制された「マ」で始まる「職業」です