想定の範囲内外考

「想定外」が無くならない真の原因  2011/09/26 井上 健太郎=ITpro
http://itpro.nikkeibp.co.jp/article/Watcher/20110920/368939/?ST=erm&P=2
>想定をするしないの判断基準は「対策の困難さ」になっていないか
>それにもかかわらず、いざ釈明を迫られる立場になると、「想定外」という言葉に「想像できなかったのだからしょうがない」というニュアンスを込めて使いたくなる組織責任者は少なくないようだ。
>例えば、東日本大震災発生当日に、自社の安否確認用サービスで処理遅延が発生したことを振り返った経営者のコメントがあるビジネス誌に掲載されていた。「経営というのは、想定外をつぶしていく作業だ。その時に必要なのは想像力だ。今回の震災を見ていても社会全体が想像力を失っているように見える」と発言していた。
>だがいくら想像をたくましくしたところで、その想像や試算結果を「発生確率が低いそんな事象の対策に大きなコストはかけられない」と経営者や責任者が退けてしまえば、想定外が無くならないことは明らかである。
>想定外を生む真の原因が経営者の意思決定にある、とする意見は、既にITproのBCP/危機管理フォーカスにおいて、複数の識者が指摘している。改めて紹介したい。
> ここで指田氏は、「自社のコスト負担能力と対策費用を比較したうえで、経営者は負担が大きい事態を被害想定から外してしまいがちなものだ」と指摘している。
>もっと厳しい指摘をした識者もいる。アビームコンサルティング プロセス&テクノロジー事業部 FMCセクター シニアコンサルタントの江口彰氏だ。江口氏は「いったんその状況を想像して影響と対策費用の比較検討を行ったのであれば、対策を講じなかったとしてもその状況を『容認』する意思決定を下したことになる」と指摘している。
>やや話はそれるが、そもそも日本人は大きな被害を想定するのが大嫌いなのだという文化論的な意見もある。「日本企業には『最悪のことを考えるのは縁起が悪い』という風土があり、ビル全損などの事態を考えたがらない。海外企業のほうがざっくばらんに、最悪の事態を言い合う風土がある」とガートナー ジャパン セキュリティ担当リサーチディレクターの石橋正彦氏は指摘する。ここ数十年で何度も戦争やテロを経験してきた国と、60年間以上も平和を享受してきた日本とで、施設の大規模な破壊を被害想定に取り入れる心理が異なるのは、仕方のないことなのだろうか。

 危機管理(リスクス・マネジメント)でいえば,カリュキュレイテッド・リスクスとかコントロールド・リスクスという説明がなされます。もちろん予算やマンパワーなどのリソースは有限ですから,リソース上の限界設定を設けるのは当然で*1,リソースの限界内で実行可能な危機管理コストの計算に業界の神髄がかかっているのが保険業界です。危険の発生確率と危険負担の分散(再保険等)の計算ですが,保険会社役員の意思決定に任せたら業界の存立基盤が失われるので,事前規制の自由化・事後審査型社会に移行した後も,保険会社は,商法(保険法)や保険業法で厳格な規制がなされています。リスクス計算に経営者の恣意が介在してはパンクするので,強行法*2によって中立の立場から準業界団体の公益法人として,損害保険料率算出機構(旧・損害保険料率算定会)*3が計算にあけくれています。
 それだけ,カリュキュレイテッド・リスクスとかコントロールド・リスクスも危機管理素人の経営者が意思決定を誤り易かった*4,という保険理論史の教えでしょう。
 また,「最悪の事態に備える(プリベア・フォア・ザ・ワースト)」もリスクス・マネジメントの基本のキで,「最悪の事態を受け入れる」とも言いますが,これは最悪の事態を忌み嫌い受け入れを忌避する(言霊信仰)という人間心理に基づくものだとされています。日本人の不合理メンタリティは,「姿勢」を大事にして危機管理は「敗北主義(敗戦思想)で軟弱!」と罵倒される時代が戦後まで続きましたが,まだ克服されていないようで,これに膨大なコストが加われば「姿勢」を「コストアップ」が後押しして,実際は先送りなのに忌避する「合理化(ラシュンライジング)」が図られてしまいます。リーガルリスクや心の病の地雷を嘆くなら,自動車を運転するときは保険に入るのに,なぜ顧問弁護士や精神分析医にかかる(委任する)ことをしないのでしょうか? リスクス管理や対処は,その道の専門家による対処でお金がかかるのです。地雷を罵倒攻撃しても逃散忌避しても,地雷という客観的に存在するリスクスは変わらないのです。地雷放置はリスク解決ではなく後塵世代へのリスク先送りに過ぎません。